外国語教育部門長挨拶

外国語を学ぶということ

私は、CEGLOC外国語教育部門で英語科目を担当しています。英語を教えることが仕事の一部ですから、「なぜそんなに英語を勉強する気になったのか」と尋ねらたことも何度かあります。「ハリソン・フォードが話している言葉をまるごとそのままわかりたかったから」と冗談混じりで答えていますが、嘘ではありません。恥ずかしながら白状すると、中学2年生のときに、辞書を引き引き覚えたての英語でハリソン・フォードにファンレターを書きました。

サンプル画像生成系AIなどを用いれば簡単に精度の高い翻訳が可能となってしまった今、外国語を学ぶ意義について
考え続けていますが、ふと、考えるヒントの一つが、ハリソン・フォードへのつたないファンレターに
あることに気づきました。

ある人に強い思いを持つというのは、当然、その人を深く理解したいという気持ちを伴います。それ
は、必然的に、その人が発する言葉を正確に深く理解したいということを含意します。その人の言葉
がたまたま自分の母語と異なるならば、その人の母語を学び、(翻訳などに頼らずに)その人の言葉
を、直接自身の耳で聞いて、自身の目で読んで、理解し、自身もその言葉でその人に向けて語りたい
と願うのは自然ではないでしょうか。

外国語を話す誰かに対して強い関心を持っているわけではなく、教育制度によって要請されるから
(要は、「必修」だから)仕方なく「英語科目」・「外国語科目」を履修しているのだという人も
多いでしょう。ならば、まずは、深く理解したいと思う外国語話者を見つけてください。身近な人
でも、俳優でも、アーティストでもよいでしょう。あるいは、特定の人物ではなくても、小説や映画や音楽などの作品でもよいでしょう。自分はこの人/ことを深く理解したいのだという欲求に導かれて学び始めることこそが全ての学問の起点であり、そうした学びこそが自身の世界を広げ、社会とつながり、人生を楽しみ味わう礎石となります。

大学で学ぶことはすべて広くて深い世界への扉となるものです。「外国語」も、単なる「科目」ではありません。その言葉を話す人々の世界観と文化が凝縮された、自分とは異なる(ところもある)他者そのものです。自己以外を他者とするなら、外国語はその他者性を先鋭的に象徴するものでもあります。そして、他者を理解しようと努める営みそれ自体が、人間のさまざまな営みの中でも極めて尊いものであり、共生と多様性を貴ぶ人間社会を維持する基盤となっているのだということを強調しておきたいと思います。もちろん、他者理解に「完全」はありませんが、その事実を受け入れながらもなお他者理解に努めようとする精神が人間相互の信頼の源泉だからです。また、他者の理解は自己の理解と分かち難く連動しています。

CEGLOC外国語教育部門は、英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語・中国語・スペイン語・韓国語の世界への扉を用意して、この尊い営みを実践する場を提供します。他者を知る試みは決して楽ではありませんが、豊穣な道程であることは間違いありません。その意義を噛み締めながら共に歩んでまいりましょう。

外国語教育部門長
高木智世